爾佐(にさ)神社
島根県松江市美保関町にある爾佐神社は、伊邪那岐命、伊邪那美命、都久豆美命(つくつみのみこと)をお祀りする神社です。
↑ 千酌湾に向かってある石柱
↑ 鳥居ー随神門ー拝殿
↑ 手水舎
↑ 拝殿正面
神社がある場所の地名が千酌(ちくみ)と言います。
この地名は御祭神の都久豆美命から来ているという説があるそうです。
「大日本地誌大系」27巻「雲陽誌」より
千酌浦
伊佐奈枳命(いざなぎのみこと)の御子都久豆美命この所に坐す、然は都久豆美といふへきに今の人猶千酌と記せり、
三社明神伊弉諾尊伊弉冉尊都久豆美命三神をまつる ー以下略ー
佐太神社正神主勝部吉成が記した「千酌神社記」には、千酌の浜に伊弉諾尊(と伊弉冉尊)が来られた時に、都久豆美命が生まれた
とも、記されているようです。
また、「出雲国式社考」では、都久豆美命は月夜見命なり(万葉に月夜を都久用とかけり)とあり、
都久豆美命=月夜見命と同一視する説もあるそうです。
↑ 神馬像
爾佐神社では四月三日に流鏑馬神事が行われます。
(鬼門堅めにあたる)
↑ お祓い所
お祭りのときには、ここにやぐらを組まれるそうです。
↑ 拝殿向かって左手の境内社
写真左のお社:惣御前社(そうごぜんしゃ)
写真右のお社:日吉神社
↑ 拝殿向かって右手にある境内社
写真左のお社:日御﨑神社
写真右の神社:新宮・加茂神社
↑ 禁足地(首塚)
宝暦十四年の「萬差出帳」より
「萬差出帳に本殿社域に古塚在り、古老に伝えるに、昔鬼神が来て日本が奪われた。
その時、諸神現れて悪鬼を退治した。その鬼の首千。
この浦に埋め置きたので、千頭浦(ちくびがうら)と、言うようになった。
禁足地にはこのような云われがあるそうです。が、この言い伝えには不審の儀とあるようで、ちょっと千の首は埋まってはいないとのことですが、かなり位の高い方の古墳ではあるそうです。
(正確な調査は出来ないので、詳しくは判明していないとのこと)
もしかすると、鬼神=渡来人で千人長(千人の部下を従える隊長)のような人の首塚だったものが、この古老の言い伝えになったのかもしれませんね。
↑ 御本殿
↑ 御本殿横にあるカエルの像
かなり古いものとのこと
この千酌は北前船の寄港地でもあったと思われます。
そんな港であったこそでしょうが、航路、航海の安全を願ってのカエル(帰る)なのかもしれませんね。
【 特別編 】
↑ 惣御前社の棟札【とっても貴重です!!】
この惣御前社(そうごぜんしゃ)について爾佐神社の平井宮司のご厚意により、見せて頂きました。
合わせて、お聞きしたお話も載せたいと思います。
爾佐神社の境内末社である惣御前社は、出雲の国、延喜式内社の主祭神一八七社(風土記時代)の神様を奉るお社です。
先日の茣蓙替えで、棟札が出てきました。
弘化三年(西暦1846年)十月九日
松江藩九代藩主 松平 斉貴(なりたか)のちの斉斎(なりとき)
この弘化三年二月十三日。第一二一代孝明天皇がご即位なさいました。
その記念の寄進なのかもしれない。
千酌・笠浦は室町時代に入っていつの頃か、皇室御領となっている。この二浦を合わせて千酌庄と言っていたことから、皇室へのお祝いの遷座なのかもしれない。
皇室御領になると、幕府管轄ではなくなり、幕府は一切手出し出来なくなる。
千酌庄はそういう地だった。
皇室御領になったことは、三条実隆が記した、実隆公記に記されている。(「実隆公記」永正六・五・十一)
そこには、笠浦が海産物、千酌が農作物を献上していたこともあった。
皇室御領になったのは、後醍醐天皇が隠岐の島へ流されるときに千酌に居られたことがきっかけかも知れない。
何れにせよ、出雲の一八七社の主祭神全ての神様を奉るお社があるなんて他では考えられないし、異例中の異例なお社です。
他にも沢山色々なお話をお聞きしたので、それは独り言の方でも書きたいと思います。
お詫び
写真は18年の秋にお邪魔した際のものと、今回23年にお邪魔したときのものを使用しています。
全て新しい写真をと思ったのですが、見比べて写りが良いほうを使ったためこのような感じになりました。ご了承ください。m(__)m
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